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2005.09.01

武蔵野市の狭量を嗤う

読者の中に武蔵野市出身、あるいは在住、あるいは通学・通勤その他でご縁のある方がおられたらごめんなさい。
しかし、この市はアホですな。
感受性のかけらもなければ、物事の筋道もわかっていない。

元記事:「毎日かあさん」論争、表現の自由か教育的配慮か

そもそも、この作品の中で武蔵野市そのものが何か槍玉にあげられたり、揶揄されたりした箇所があっただろうか?
そんなもの、ありはしない。武蔵野市に暮らす(という想定の)登場人物たちが引き起こす人間模様が(主に)描かれているだけだ。
偶然、その中にサイバラの息子が描かれているから、学校が特定できたり、クラスメイトや担任も、当事者なら「これは自分のことかも」と思う程度の話である。しかし普通の感受性を持って読めば、「毎日かあさん」が適度にフィクションがちりばめられた作品であることは容易にわかると思うのだが・・・わかんないんだろうな。

作品の中で描かれる武蔵野の風景は、実に詩情豊かで、心癒されるものがある。どうしてこういうタッチで、あんな素敵な絵が描けるのか、誠に不思議なものである。
どうかその風景が歪んでしまわないように。

2005 09 01 12:22 AM [(-_-;), アニメ・コミック] | 固定リンク

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コメント

だいたい学校というところは世間とは違う常識があるというか、学校という世界に隔離されている人が多い社会だと思う。そうしたなかで、一部の小うるさい保護者からの難癖を未然に防ぐべく、思いっきり安全サイドに軸足を置いた判断をするのだ。「判断」というのは正確ではないな。「判断などしていない」というのが正しいか。
まともな判断をする教師は、学校という社会では異端なのだ。
もちろん、私の知り合いにはまともな教師はたくさんいる。彼/彼女らは学校という世界とは違う価値観をも共有しているのが、「普通」の教師と違うところだろう。

投稿者: あげさん (02-sep-05 00:07:41)

あげさん(^_^)
そうやね、判断停止。それに尽きるでしょう。
それはそうとして、彼らは「毎日かあさん」単行本2巻の巻末で、自分とこの知事が作者と一緒に写真に写っているのを、どういう気持ちで見ていたのかなぁ・・・って、読んでないか、そもそも(笑)

投稿者: ちいしゃ (02-sep-05 00:18:55)

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