2011.05.16

ご報告を・・・

しなければなぁ、と思いつつ、今頃になりました。

一部の方にはお知らせいたしましたが、去る5月14日、母が息を引き取りました。
同日夜に通夜、日曜日に葬儀を終えました。

先に前日、当日のことを書いておきます。

前日、5月13日、偶然その日は休みを入れていたのですが、朝8時に自宅の電話が鳴りました。病院からでした。血圧がかなり下がってきているという話。
「いつ来れますか?」と言われたので、一時間後、9時には・・・と答えて、準備をします。一刻を争う状況なら「すぐ来てください」でしょうから、まだそこまで切迫していない、ということです。

病室に入ると、ベッドサイドモニターの数値は芳しくありません。
このモニター、フクダ電子製のDS-7810という機種で、ディスプレイには心拍数、血圧、SpO2(経皮的動脈血酸素飽和度)、呼吸数が表示されます。
SpO2は健常者なら96~98程度ですが、この日は85前後。
モニター設置時は90を下回るとアラームが鳴るように設定されていましたが、この日の時点では85が下限に変更されていました。それでも時折アラームが鳴ります。

血圧は常時測定している訳ではなく、看護士さんがモニターの測定ボタンを押すと測定する仕組みですが、午前中は上が80台、下が40台という状況。

午前中に叔母(母の妹)が来てくれて、午後には父方の叔母(父の末弟(20年以上前に亡くなっている)の嫁さん)、そして叔父(父の次弟)が来てくれました。夕方には叔母(父の妹)の息子、つまり私の従兄が来てくれましたが、この叔母も今入院中という話・・・

その他、午前中に病院のケアマネージャーさんがお二人、相次いで様子を見に来られました。在宅介護のお世話になったのはほんの1ヶ月半ほどでしたが、こちらのケアマネさんには大変よくしていただきました。この日に限らず、時間が許せば顔を見に来てくれていたそうです。

様子を見にこられた執刀医の先生や看護士さんからは、血圧低下と共に、体温が高いこと、そして何より前夜から殆ど排尿がない点が心配だ、と告げられました。しかも出ているわずかな尿の状態も非常に悪い、という話です。腎臓の機能が低下している、ということなのかな・・・と理解します。

午後には血圧が、上68、下31とさらに悪化します。
SpO2は一度100を示すことがあったりして、安定しません。平均すると90前後というところでしょう。
ただ、心拍数と呼吸数は比較的安定しており、夜には割と低空飛行ながら安定しているようにも見受けられました。
面会時刻の終わる20時には、何かあればすぐに連絡いただくように看護士さんにお願いして、一旦自宅に戻ります。

その晩は、呼び出されたらすぐに飛び出せるよう、外出時の服装のまま、茶の間で寝ることにし、IS03の充電も万全の体制をとります。

電話が入ったのは、14日の午前2時20分。
既に呼吸が弱々しく、血圧も著しく低い、すぐに来てくれ、という話。

顔だけ洗って、タクシーを呼び、10分後には家を出ていました。
家から病院まではタクシーで6~7分。あと2分ほどで着くだろうという地点で再度ケータイが鳴ります。
もう血圧が測定できないレベルまで下がっている、とのこと。
あと3分ほどで病室に着きます、と伝えて、一路病院へ。

夜間入口から入り、病室に駆けつけると、看護士さん二人が待っていました。この時点でモニターの数値は全て0。ただ、腕に触れると心拍数が少し変動します。これは生きている人の反応なのか、単なる化学的なものなのか、機械的なものなのか・・・

すぐに当直の医師を呼んで来られ、型通り、聴診器で心拍を確認し、瞳孔を照らします。呼吸数はモニター上も0と表示されています。
その若い当直医から、午前2時48分、死亡を確認しましたとの言葉を受けます。

看護士さんがモニターのアラームを切り、点滴を外します。
最期まで鳴り続けたこのモニターの低いアラーム音は、今の私には緊急地震速報の警告音よりもトラウマになりそうな音になりました。

それから少し遺体の処置があるので、その間は同じフロアの展望室で待機、処置後に少しだけ二人きりの時間を作ってくれました。
何を母の遺体に向けてしゃべったのか、はっきりとは思い出せませんが、感謝の言葉とねぎらいの言葉をかけたような記憶があります。

その後、白装束に着替えさせるのと化粧を施すので、その間に1Fの待合所でご親戚に連絡してください、と促されます。

夜中の3時半頃の病院の待合室。
20年前の父のときも深夜に亡くなったので、その時以来の感覚です。
ただ、その時に横にいた母は、もういません。

母が入院前に作っていた緊急時の連絡先一覧を見ながら、主要なところから電話をかけていきます。すぐに出てくれる親戚もいれば、出ない親戚もあります。まぁこの時間帯では致し方ないところ。

併せて、市役所の市民生活課にも電話をかけます。
当直の方が出られて、簡単なヒアリングを受け、市の委託業者に連絡をしてくれることになりました。父のときにもお世話になった業者を伝えました。

少しするとその業者から連絡が入り、市立斎場での家族葬を希望しましたが、近時は家族葬を選ばれる遺族が多く、小規模な式場は日曜、月曜あたりまで埋まっている、と聞かされます。
仕方なく、斎場に隣接している葬儀社のホールを利用することにします。
この頃には、昨夕も来てくれた従兄がかけつけてくれていました。私の二つ年上で、自分の母が大変なときではありますが、わざわざ川西から駆けつけてくれて感謝、です。

5時半に葬儀社の車が到着し、遺体を車に搬送、私は葬儀社の車に同乗し、従兄は自分の車で、葬儀社のホールにある安置室に遺体を移送します。
後で確認すると、その部屋はお寺さんの控室だったようです(^_^;)

少しすると大阪市内からお寺さんがかけつけてくれ、枕経をあげていただきました。ご住職の奥様で、いつも懇意にして下さっている方です。個人的な印象ですが、私はこの奥様のお経が結構好きです(^_^)。母も多分そうだったと思うので、奥様に枕経をあげていただけたのはよかったと思っています。

さらに少し待つと、叔母(父の末弟の嫁さん)が駆けつけてくれました。
父方の親族の中では、一番母が頼りにしていた方です。
双子の息子を授かった少し後に夫が骨肉腫とわかり、幼子を二人抱えながら、夫の最期を看取った方です。
この叔母に後を託して、従兄と私は一旦家に戻って、礼服などの準備をすることにします。

自宅に戻って、まずやらなければならないのは、遺影となる母の写真を探すことです。
準備のいい方なら、生前から「これを使え」と用意しておくところでしょうが、そういうことはなく、また最近は写真を撮ってもらう機会もなく、それ以上に家の中が全く片づいていなくて、何がどこにあるのかさっぱり・・・という状況だった訳です(^_^;)

ひとまず母の寝室のタンスを一つずつ開けて確認していくことにしました。
すると・・・アルバム発見!(^o^)
これは・・・とめくっていくと、どうやら私が生まれて以降の幼少期のアルバムだった模様(^_^;)
何か使えそうなものは・・・と見ていくと、何と私の七五三のときの写真を見つけました。和服姿で立っている母の横に、小さな私がいます。
直感的に、これは使える。若すぎるけど、女性だし許される・・・と判断し、その写真を持参することにしました。
結果的に、随分話題になりましたが(^_^;)、まずまず好評でした。
まぁ母も苦笑していることでしょう。

それからあれこれと準備、身支度をし、仏壇の前だけ物を退け(^_^;)、猫に餌を与えて家を出ます。
一旦駅前の銀行でお金をおろし、駅前からタクシーで葬儀社のホールに戻ります。

あとは夜の通夜、翌日の葬儀と火葬、骨あげ、初七日と行事が続きます。
葬儀が午後からだったので、午前中に葬儀社の方と自宅に戻り、四十九日の祭壇をセッティングしてもらいます。前日少し片づけた程度では祭壇を設置するには足らず、さらに物を脇に寄せる必要がありました(^_^;)

火葬は隣接する斎場なので、一同ぞろぞろと葬列を組んで徒歩2分。
民家もある場所なので、お住まいになられている方は毎日のようにこういう葬列をご覧なのでしょうけど、ちょっと奇妙な感じ。

自宅には葬儀社の車で叔母(母の妹)と共に戻り、葬儀社の方に祭壇に遺影や遺骨を設置してもらい、何とか体裁が整います。
叔母とコーヒーを飲んで一息つき、長い三日間が終了。

さて、前回の日記以降のことも少しだけ。
前回はまだ「カレイの煮つけが・・・」なんていう段階でしたが、これも結局二口ほど口をつけただけで満足。あとは殆ど食事を受け付けなくなってきました。

一度だけ、「アイスがほしい」というので、向かいのコンビニに走り、「爽」のバニラを買ってきて、これも二口ほど口にしたことがあります。
私が見る限り、これが母が最後に口にしたもの、です。ひんやりとしたアイスの食感をじっくり味わっているようにも見えました。

4月下旬以降は点滴だけで生き長らえている状態で、人はやはり口から食べ物を摂取できなくなると、一気に気力が衰え、衰弱していくものだな、と実感しました。

まだまだ様々な手続や行事、そして家の内外の片づけが残っており、しばらくはのんびりともしていられませんが、できるところからぼちぼちやっていこうかと思っております。
まぁいつ呼び出しの電話がかかってくるかと緊張が絶えなかった頃に比べれば、気分的には少しホッとしているというのも事実ではあります。

会社からは木曜まで休んでね、と連絡が入ったので、お言葉に甘えようかと思ってます。
丸一週間休んじゃうので、金曜日に出社したら、デスクの上がえらいこっちゃな感じになっているであろうことが予測されます(+_+;)

土曜以降は自動ツイート以外のツイートもしてなかったのですが、これを機にまた復帰しようかと思います。まぁいい息抜きにもなりますしね(^_^)

これまでに、皆さんからも様々な形でお気遣いいただき、また応援していただいたり、アドバイスもいただきました。
私もですが、亡き母もきっと感謝していることと思います。
本当にありがとうございました。

最後になりましたが、これからもよろしくお願いいたします。
ふ~(+_+;)

2011 05 16 11:10 PM [Information, , 日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2010.09.13

残念としか…

まぁ、今さら書くのもアレですが・・・

事故死:交響楽団のコントラバス奏者、マウンテンバイクで

16日に定期演奏会、17日にCD発売
・・・を目前に控えて、こんなことがあってよいものか・・・

ご冥福をお祈りします。

2010 09 13 11:58 PM [] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2009.05.08

しゅうこうさん

将棋の名人戦七番勝負は第3局であるが、それはそれとして、囲碁の藤沢秀行名誉棋聖が亡くなった、とのニュースに驚く一日。

将棋の大家、名人と言われる人はとっとと亡くなるのに、囲碁の人はしぶといよなぁ・・・とずっと思っていて、加藤正夫名誉王座が57歳で亡くなられたときにはとても驚いたものだが、永遠に生き続けるのかも知れない、と思っていた「しゅうこうさん」が亡くなられたのにも大変驚いた。
84歳まであと1ヶ月、というところだったそうである。

誤嚥(ごえん)性肺炎、というのが死因。
うちの母(しゅうこうさんと同い年である)も時折食べ物を飲み込み損ねて、気管に入りかけて激しくむせるときがある。
咳をする、という反応は、こういうときに正常なものだけど、その力がない、もしくは弱いと、食べ物、飲み物、あるいは雑菌の様々混じった唾液などがそのまま気管から肺に入り込んでしまい、ひどい場合はそのまま死に至る。介護の仕事をされていたり、ご家族の介護をされている方には、非常に気がかりなもので、よく知られている病気であるが、ワタシは恥ずかしながら、本日初めて目にして、知った病名であった。
まぁ、後半生は病との戦いの日々だったようではあるし、喉頭ガンにも見舞われている。その辺も、誤嚥性肺炎の遠因になっていた可能性はあるかも知れない。

しゅうこうさんは1925年生まれであるが、そのときの父親は69歳(母親は23歳)だったという。なんかそれっていいな・・・と思う反面、ほんまでっか?と、よからぬことも思い浮かぶワタシである(^_^;)
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい(_ _;)
でも・・・

しゅうこうさんの人となり・・・を語れるほど、囲碁界には詳しくないが、将棋界にたとえるなら、升田幸三と芹沢博文と米長邦雄を足して、さらに倍・・・みたいな感じの人だったのではないか、という気がする。個人的には米長邦雄ではなく、小島武夫を足したいが、残念ながら種目が違う(^o^)
でも、升田の才能と、芹沢の人間性と、小島タケちゃんの感性とか壊れっぷりとか人生がけっぷちの連続です、みたいな部分が絶妙にブレンドされてる、というと、かなり近づくような気もする。

まぁ少なくとも大山康晴とは全く違うし、不倫しても反省してるような中原誠とも器が違い過ぎる(いや、中原先生の器が小さい、と言ってるのではないです。器の形が異次元)

何にせよ、巨星堕つ、の言葉がぴったりくるだろう。

2009 05 08 11:55 PM [] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2007.07.17

さらば、チビ

Monban東京出張から帰って来たら、母から「チビが交通事故で死んだ」との報。
最近よくなつくようになってきていたので、大変残念だ(T_T)

9日前に撮影したこの写真が遺影になってしまった・・・

2007 07 17 11:40 PM [Photograph, ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2007.04.29

スコッティ、宇宙へ

ジーン・ロッデンベリーも確か宇宙葬だったと思いますが、ドゥーアンさんの遺灰も宇宙を旅してきたそうです。

スタートレック機関士・スコッティの遺灰、宇宙へ

行って、帰ってきて、遺灰は遺族に返還されるということのようです。宇宙空間への散骨は、いろいろ難しい問題(物理の法則の問題ではないけれど)があるらしくて、現状では無理らしいということのようですね。

遺灰1グラムあたり6万円ほど($495)でやってもらえるそうです。

2007 04 29 09:00 PM [StarTrek, ニュース, ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2007.03.29

尼崎駅にて

11時を少し回ったあたりで同僚と職場を後にし、尼崎の駅のホームに行くと、ホームの屋根を支える柱にしがみついてしゃがみこむ若い女性の姿あり。

「頼むからここで吐かないでほしいですよね」と同僚。
「それより、電車来たときによろけて、そのまま電車にダイブでもされたらかなんがな」
「壮絶なシーンですやん」
「でもそうなった場合、一番間近で血しぶきとか脳漿とかを浴びるのはキミやで」
「ちょっと移動しましょか」
「そう言えばね・・・」

昔、大阪駅のホームで、文字通り泥酔された娘さんが、ベンチではなく地ベタにへたりこんでいたのだが、しばらくするとその娘さんを中心として、じんわりとある種の水分が周囲に広がりゆく、という場面を目撃したことがある。

「正気に戻ったとき、大変だったでしょうねぇ」と同僚。
「そこまでは見届けんかったけど・・・もしかしたら、既にある一線を越えてしまっていた人だったのかもなぁ、とも思ったりしてね。そこを越えるとなかなか・・・」

そんなことをしゃべっていると、またまた鴨ちゃんのことが脳裏をよぎって気持ちが重くなる。
彼は一線を越えてしまった人だけど、それでも依存症は克服できたのに、同時進行のガンにはついに屈服せざるを得なかった。

「毎日かあさんち」に寄せられた膨大な数の弔いの言葉に対するサイバラの謝辞を読んでいると、この人はやはり紙に向かうとプロ根性が出てしまう人なのだな、と実感する。
「AERA」で描かれている彼女との落差がまた彼女らしいというか・・・

しがみつきしゃがみこみの姫は、ちゃんと介添えの王子様がいたようで、電車にダイブするでもなく、ホームにリバースするでもなく、無事にわれわれの隣の車両に乗り込んでいったようだった。

2007 03 29 11:47 PM [etc., アニメ・コミック, ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2007.03.27

たわけもの

家を出て、小走りに最寄のバス停に向かうと、目当てのバスがやってきた。ダッシュ・・・辛うじてセーフ。

乗り込んで気がついた。
いつもワイシャツの胸ポケットに入れているiPodの電池がなくなっていたことを。
行き帰りがかなりつまんなかったが、風邪気味で熟睡してしまったので、結局どうでもよかったワケだ(^_^;)

いつの間にか放電してしまったのかな。一昨日の晩、バッテリー残量をしっかりと確認した訳ではないが、赤かったような記憶はない。
微かに残った電池の力でディスプレイに表示されたリンゴのマークは、実はなかなか美しく、はかなげな感じがする。

サイバラコミュで妙ななりゆきで話題沸騰(^_^;)してしまった「AERA増大号」と、「哭きの竜・外伝3」を購入して帰宅。

鴨ちゃん死去から一週間、季節の変わり目でいろいろあるのか、亡くなる方が多い気がする。
植木等死去もとても残念だが、達六段が亡くなられたのにはびっくり。前から悪かったのかな。まだ若いのに。

2007 03 27 11:04 PM [music with iPod, ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2007.01.17

肉入り紅生姜丼、復活の日

棚卸し立会いのため、朝から担当を割り当てられた店舗に出向く。
直線距離だと近いのだが、雨が降っていること、最寄りの鉄道駅から遠いこと、バスがあるけど、一度阪急の駅まで出なければならないこと、自宅近くから出ているバスは9時前にならないと阪急の駅前まで行ってくれないこと・・・等などの諸条件があって、面倒なのでJRの駅前からタクシーで向かってしまうことにする。
駅前のデイリーヤマザキで昼食のパンを購入したとき、ミルキーがまだ売っているか確認してみたが、既に撤去されていた。悲しい・・・

タクシー待ちの列が数名。しかし結構来ないものである。雨のせいなのか。
やっと来たタクシーに乗って、店までの道がいわゆる「ばばこみ」(+_+;)
店のかなり近くまで来ていながらなかなか動かないなぁと思っていたら、トラックが事故っていて、パトカーやレッカー車が止まっており、1車線潰れていたのであった。そこを越えるとすいすいと行くが、店まで車でほんの1分かそこらのところでこの事故は痛い。

店内に入ると既にチェック進行中で、何と午前中にチェック終了し、午後イチでの開店にこぎつけてしまった。店長以下数名が前日から徹夜で臨んだだけのことはある。
結局、昼食用に買ったパンを食べる機会もなく、そのままバスで阪急の駅前へ。

ここでふと思い立ったのが、「吉野家」である。
牛丼再開後、実は全く立ち寄る機会がなかったのだが、折角なのでパンは後で食べることにして、久しぶりに牛丼(と言うか、ワタシの場合は「肉入り紅生姜丼」と呼ぶ方がふさわしいが)を食べてみよう、ということになった。
駅前の店舗に入って、並と卵を頼み、ごぼうサラダをつかむ。忘れかけていた感覚だが、やはりブランクが長かったせいか、「つゆだくのねぎだく(こういう場合、何事も過剰をよしとする主義である)」と伝えるのを忘れていたのは痛恨事(^_^;)

卵をといて牛丼にかけ、七味唐辛子のように見えるふりかけを全面的に、華々しくふりかけ、ここで一度ビビンパのごとくかきまぜる。
続いて丼の端の方を少し掘って、そこに紅生姜をトングでひとつかみ、ふたつかみ、みつかみ、よつつかみ、いつつかみ・・・ぐらいで今日は容赦してやることにした(途中で追加したが)
この状態でさらに軽くかきまぜて、ようやく口に入れる。これがスタンダードな肉入り紅生姜丼の食し方というものである。

食べながら他の客の動向にも注意を払っていたが、意外と豚丼の人気も高い。牛丼休止中に豚丼に親しみ、そのまま豚丼でよし、と考えるようになった客も結構いるのであろう。値段や量の問題もあるのかも知れない。牛丼は並か大盛までだが、豚丼なら特盛もOKである。

1月17日。
個人的には・・・新聞社時代の同僚が結婚式と出産を間近に控えた身で逝ってしまったこと(だから震災の犠牲者には、あと0.5人付け加えるべきだと思っている)、四天王寺近くの寺で見た、透き通るように白い、彼女の死に顔が思い起こされる。

敢えて言うが、まだこれは過去形ではなく、現在進行形で語るべき災害であることを忘れないようにしなければ、と思う。

2007 01 17 04:07 PM [, 日記・コラム・つぶやき, 飲食] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2007.01.14

あれから20年

湖畔に佇み、瞑目してヘッドフォンから流れる音楽を愉しむ(愉しんでいるかのように振舞う)ニホンザルとして、一躍有名になったチョロ松が、29歳8ヵ月(人間の年齢に換算すると100歳)で大往生を遂げたそうな。

実際には音楽を聴いていた訳ではなかったそうだが、あの表情は忘れがたく、印象に残っている。
キャッチコピーもよかった。
「音が進化した。人はどうですか?」
さっぱりです。

チョロ松の画像は以下で見ることができる。
周防猿まわしの会

2007 01 14 11:32 PM [etc., , 映画・テレビ, AV・デジタル家電] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2007.01.07

今日の昼食はもちろん

安藤百福さんを偲んでカップヌードル。

長命の経営者というと、2つ前に在籍していた会社には、私が入社する少し前まで存命だった創業者オーナーがいて、亡くなられた時には105歳の大往生だったそうな。
社長が子息で、既に70代半ば。しかしアメリカやヨーロッパや中国や中東にひょいひょいと飛んでは商談を進めて来られる。
こういう人たちは身体の基礎がしっかりしてるんだろうな、と思う。

さて、池田と言えば「かき峰」だが、その「かき峰」からさほど遠くないところに「インスタントラーメン発明記念館」がある(ついでに私が3つ前に在籍していた会社が出した店も近所にある(^_^;)。泉茂さんのマンホール蓋写真集、今も店内に飾っているだろうか・・・)

「インスタントラーメン発明記念館」

「かき峰」(「るるぶ」サイトの紹介記事)

今季は(というのは、3月で「かき峰」の今シーズンの営業が終わるので)何とか「かき峰」に行くオフを復活させたいのだが、それだけのために池田まで行くのもナンなので、先にこのラーメン記念館を見学してから行く、というプランも悪くないなぁ、と思う。

問題は昨今のノロウイルス騒ぎで、「かき峰」のあの絶品の酢牡蠣が食べられるのかどうか、というところかな。
最近行かれた方、もしいらっしゃったら情報を下さいませ(_ _)

まぁ山盛りのカキフライ、かき土手鍋、そして極上のかき飯、そして「呉春」があれば十分、とも言えるが(まぁ「呉春」は震災以降水質が変わってちょっと・・・という声も聞くが)

2007 01 07 11:13 PM [, 日記・コラム・つぶやき, , 飲食] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2006.09.06

服喪の日

・・・だなぁ、イタリアは。
特にインテリスタではないし、彼の現役時代のプレーを知っている訳でもないが、インテルがまがりなりにもヨーロッパのトップクラブの一つとして評価され続けているのは、モラッティの下に、彼のような人がいたからなんだろうと思う。
巨星墜つ。だが64歳というのはまだ若い・・・

ジャチント・ファケッティ 死去関連記事
ファケッティ氏が死去、インテルにささげた人生
巨星墜つ・・・インテルの象徴突然の他界にイタリア騒然

今日、Euro2008の予選でフランス代表と戦うアッズーリの面々も、喪章をつけて弔意を表す。

2006 09 06 02:38 PM [Football, ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2006.05.06

志のゆくえ:萱野茂さん追悼

萱野さんが亡くなった。
一人の、元国会議員の死というのではない。
一人の、民族を代表する象徴的存在の死である。

訃報:萱野茂さん79歳=アイヌ民族初の国会議員を務める-訃報:MSN毎日インタラクティブ

学生時代に「アイヌの碑」を読んで、さまざまなことを学んだ。

アイヌに関心を抱くきっかけは、おそらくは本多勝一の著書からだったろう。
「殺す側の論理」だったか「殺される側の論理」だったか、もしくは双方からだったかも知れない。
そこから興味がふくらみ、大学の語学研究所(語研)の公開講座でアイヌ語の初級クラスに通い、実際に東京に暮らすアイヌの方々と机を並べてアイヌ語を学んだものである。アイヌ語の、母音調和を色濃く残した柔らかな響きに心洗われる思いがしたことを思い出す。

田村すず子先生を中心にして、当時のクラスのメンバーで撮ったモノクロの記念写真が、今も藤本英夫さんの著書「銀のしずく降る降る」の折り返しに挟んである。
この本(新潮選書から出ていた)も、今は入手不可であるが、「銀のしずく降る降るまわりに」として草風館から再刊されているようである(値段は倍以上になったが)
「アイヌ神謡集」をまとめ、弱冠19歳にしてこの世から旅立った薄命の人、知里幸恵さんの生涯にスポットライトをあてたこの著書は、20代の私にとって、「夜と霧」「白バラは死なず」と並んで、多大な影響を与えた一冊であった。
著者の藤本英夫さんも、昨年12月24日に亡くなられたばかりである。

さて、話を萱野さんに戻さねばならぬ。
国会議員としての萱野さんの業績は、ご本人にとっては、おそらくは隔靴掻痒の至りだったのではないだろうか。
さまざまなことを提起した。訴えかけた。訴え、怒った。
あるものは人々の心に届き、あるものは届かなかった。

ある意味では、萱野さんの活動は奏功したものも多かったとは思う。
二風谷ダム建設の差し止め訴訟は、まさにその最たるものだ。

萱野さんの活動を、スタンドプレーと見る向きもあるかも知れないが、萱野さんがスタンドプレーをしなければならないほど、日本という国で、アイヌという少数民族の存在が、人々の口の端にのぼることは皆無に近かったのである。
そして、萱野さんの活動が局地的に成果を収めたにせよ、日本におけるアイヌの立場は、残念ながら今もまだ限りなく無に近い。このあたりが、まさに隔靴掻痒たる所以なのである。
今、萱野さんの志を引き受け、さらに大きく育てていくことができる後継者が真に俟たれる。

萱野さん、本当にお疲れ様でした。
どうぞ安らかに・・・

2006 05 06 11:47 PM [] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2006.04.25

あれから1年

あれから1年

いつものように尼崎駅に着くと、追悼会場に向かう人々や報道陣で、かなりの混雑。
うちの1階駐車場がシャトルバス乗り場になっていた。

2006 04 25 08:27 AM [Photograph, , 日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2006.03.27

心はいつも乙女のように

泉州のビッグママ、逝く。

訃報:小篠綾子さん92歳=ファッションデザイナー

母に話を聞くと、何やら母の家系とは、限りなく他人に近い遠縁になるようである(うちの母方の親戚は貝塚~岸和田界隈に点在している)
その縁で、母が若い頃に、綾子ママに服を作ってもらったことがあると言う。
年齢的にうちの母は、綾子ママとその娘たちの中間ぐらいなので、3姉妹のことは今でも小娘扱いである。
特に真ん中は「あのジュンコ(「ン」が高くなる独特のイントネーション)がねぇ・・・」となる。

ちなみにタイトルは、コシノ一家をフィーチャーした明治座の公演のタイトルからいただいた。
そのとき、綾子ママを演じたのは赤木春恵。ちょっとイメージ違うんだけどなぁ・・・。まぁ3姉妹もそれぞれ全然イメージが違うけれど(^_^;)

92歳。
まぁ大往生なんとちゃうかな。
どうぞ安らかに・・・

2006 03 27 12:00 AM [] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2006.02.09

あなたを決して忘れない

出張明けの疲れた頭で、ぼーっと新聞のスポーツ面を眺めていて、その片隅にある訃報が目に留まる。

「富樫・・・洋一・・・? ジャンルカ? なんで? 今、アフリカでしょ?」

ジャンルカ・トト・富樫洋一氏。
その、Africa Cup of Nations取材中、カイロで風邪を患い、呼吸困難に陥っての急逝と聞く。
享年54歳。
今まさにサッカーメディアの中心で確固たる位置を占め、これから20年は軽くやっていけるはずの人だった。
惜しい・・・などの言葉が軽く聞こえるほど、サッカーメディア界の損失は計り知れない。

熱烈なインテリスタとしての側面はよく知られるところだが、アフリカのフットボール事情に明るいこと、そしてこれから大きく伸びようとしている若手選手を「発掘」する目の付け所の鋭さもまた、ジャンルカ氏の真骨頂であった。
本当に、彼のコメンタリーで初めて知った選手がいかに多かったことか。
名を成したスター選手でなく、そういう選手の紹介に情熱を注いだところに、彼のフットボールジャーナリストとしての矜持を、強く感じる。
今回のアフリカ・ネーションズ・カップ取材も、彼にとっては宝の山、金脈の発掘に似た、心ときめかせる旅だったはずだ。
それが、死出の旅となるとは・・・
まさに、「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」

自分はインテリスタではないし、迷走するインテルの姿をシニカルに眺めるぐらいのものであるが、ベルゴミが活躍していた頃などを思い出しつつ、ジャンルカ氏の在りし日に思いを馳せたいと思う。
あの軽妙な(時に大きくスベる)ダジャレが、もう聞けないのかと思うと、本当に寂しいし、悲しい。

さようなら、ジャンルカ。
どうぞ安らかに・・・

2006 02 09 11:45 PM [Football, ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2005.09.19

晩夏

9月下旬とは言え、まだまだ蒸し暑い日々が続いている。
一時期の涼しさが嘘のようだ。

そんな晩夏の一日、大いなる挫折に見舞われた一人の革命家がこの世を去った。

流通革命のコンセプトは、おそらく今でも正しいのだろう。
巨大メーカーではなく、巨大金融業でもなく、流通業であるダイエーを、その巨大さゆえにという理屈はあるにせよ、潰すことができなかったことが、その正しさを認めざるを得ないことの証左ではないか、とも思う。
一方で、メーカーの、特に開発者が、まだ十分とはとても言えないにせよ、消費者の意向、志向を意識せざるを得なくなってきている流れも、流通革命の別の側面とも言えるかも知れない。
あの世で「松下vs中内」の激論が再開されているのかどうか、そこまではわからないが。

渥美俊一のもとで血判状を書いたメンバーも、少しずつ欠け始め、何人かは既に最前線からは退いている現在、日本の流通業の牽引車となり得るのが、どこ(どの業界)の誰になるのか、個人的には興味深いことと感じている。

最後に、中内功氏のご冥福をお祈りします。

2005 09 19 11:56 PM [] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2005.07.21

もう一度転送メモリーで

待ってるんだろ、スコッティ…いや、ジミー(;_;)

James Doohan: March 3, 1920 - July 20, 2005 from STARTREK.COM

スター・トレック機関士、宇宙葬に=J・ドゥーアンさん死去

スタートレックの生みの親、ジーン・ロッデンベリー同様、ジミー・ドゥーアンの遺灰も宇宙に還る。
まさに、余人を以って代え難い、名優は去った。
使い古された言い回しだが、今頃きっと、ジーン、そしてディ・ケリーさんから「やっと来たか。待ったぞ」と歓待を受けているのだろう。

あなたの魂は宇宙に遍在することになるのだから、さようならとは言わない。
ただ一言・・・・・あなたは素敵だった。

****追記****

ジョージ・タケイさんによるトリビュート

2005 07 21 10:12 PM [StarTrek, 宇宙, ] | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック

2005.06.27

嗚呼、吾郎ちゃん

遠井吾郎さん死去27日、東京にて死去。
享年65歳。
子供の頃のヒーローの一人が、ひっそりと舞台を降りた。

走・攻・守のバランスがよく、総合力に優れた選手がもてはやされ、活躍する中で、吾郎ちゃん(敢えてそう呼ぶ)のように、足が遅く、ファーストしか守れず、内角を速球でつかれると、「遠井、腰が回らない~!」とアナウンサーに言われてしまうような、今から言えば「穴の多い」選手が、それでも自分の特徴を生かして十二分に活躍できた時代、それは1970年代も前半までだっただろうか。

体型から想像するよりも、バッティングのセンスは繊細で、柔軟に左右に打ち分ける選手だった。もちろん当たればでかい。しかし、足が遅いからホームランかシングルヒット、という感じであったろうか。

引退後、何かのテレビ番組で、彼が曽根崎新地で店をやっているところを紹介していたのを観た記憶がある。
それはそれで彼に合った第二の人生だったのかも知れないが、その後はあまりマスコミに姿を現わすことはなかったように思う。

ご冥福をお祈りします。

2005 06 27 11:27 PM [] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

2005.03.13

さまざまな訃報

帰宅すると母が「桂文枝が死んでんて」とのたまう。
まだもう一花・・・という年齢で、大変残念なことだ。

録画しておいた"FOOT! viernes"を観ていたら、あのリヌス・ミケルスが亡くなったという。
1970年代、アヤックスのトータルフットボールを築き上げた名伯楽。クライフというスーパースターの誕生の影には、この名コーチの存在があった。20世紀最優秀コーチの称号も納得である。

かの「りんけんバンド」の照屋林賢の父上で、自らも沖縄音楽界の重鎮であった照屋林助さんの訃報もあった。
音楽と笑いを合体させ、また「コザ独立国大統領」を自称するなど、ウチナー文化の中心にい続けた人だったという。
チャンプルー文化の研究、紹介でも知られ、「りんけんバンド」の曲に歌詞を提供されていたり、たいそうアクティブな人だったようだ。

お三方のご冥福をお祈りいたします。
いずれの方も、亡くなられてその不在が大きく感じられる、そんな人たちですね。

2005 03 13 01:50 AM [] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.12.30

殺し屋、逝く

何故かついていたトラックバックでこのニュースを知りました。
驚きと共に、衝撃を受けております。

訃報:加藤正夫さん57歳=日本棋院理事長、本因坊4期

57歳というのは、私の父が亡くなったのと同じ年齢。
脳梗塞とその合併症とのこと。
囲碁はそんなに詳しい訳ではないけれど、将棋界とは隣り合った世界なので、どういう人たちが活躍しているのかぐらいはわかります。
ましてや加藤九段ぐらいの大棋士となれば・・・

そう言えば、加藤九段に絡んでは、こんなahorismを作ったこともあったのでした→こちら
そんなこともあって、個人的に、かつ勝手に、少し親しみを持っていた棋士の一人だったのでした。

しかし・・・
だって、ついこないだまでテレビにも出演されていたし、もう少し前には本因坊だった人ですよ。
信じられない・・・
今はただ、ご冥福をお祈りするだけです。

2004 12 30 11:57 PM [] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

2004.12.15

真夜中のドア

のヒットで知られる、歌手の松原みきさんが亡くなられたとか(亡くなられたのは10月らしいが)
44歳ですか。若い・・・

訃報:松原みきさん44歳=シンガー・ソングライター

ご冥福をお祈りします。

私が東京で学生生活を送っていた頃、というと1980年代前半だが、この人はそれなりにヒット作を出していたような記憶がある。
何故か私もそこそこ好きで、LPをレンタルしてきて聴いたりしていたので、今でも「真夜中のドア」ぐらいならカラオケで歌えるだろう(というか、昔はちょくちょく歌っていたかも)

今日帰ったら、古いカセットテープでも引っくり返して聴いてみるかな。
カビにやられてなければよいが・・・

2004 12 15 12:00 PM [] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.11.23

Requiem

John Rutterの作品からピックアップしたプレイリストを聴きながら家路についていた。
JR茨木駅に着く頃、私の耳に聞こえてきたのは、"Requiem"
20世紀に書かれたレクイエムの中でも、個人的にはかなり好きな部類に属する作品である。
帰宅した時には"Pie Jesu"の途中だった。

食事をとり、ノートPCを立ち上げ、メールをチェック。
その中に、私のよく知る、とあるアクティブなネットワーカーが亡くなったことを知らせるメールがあった。

彼女が病と闘っていることは、薄々ではあるが知っていた。
いや、亡くなったと聞かされて、やっぱりそうだったか、と合点がいった、というべきか。
それでもにわかに信じられるものではない。
信じられるものではないのだが・・・

ありったけのバイタリティと笑顔を振りまいていた彼女の早すぎる晩年は、彼女を知る多くの人々に、かけがえのない思い出を残してくれたと思う。
ありがとう。
そして、どうぞ安らかに。

2004 11 23 12:18 AM [music with iPod, , 日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.11.11

アラファトの(やっぱり)「死」

アラファト氏死去
さながらシュレーディンガーの猫の如く、生きているのか、死んでいるのか、報道からはさっぱりわからなかったアラファト氏であるが(それゆえ、彼の死はこれまでカギカッコ付の「死」として表記されることが多かったのだが)、今度ばかりは、死去が確定情報となったようである。

パレスチナ:アラファト議長が死去

噂レベルの話だが、毒殺説などもあって、彼の「死」を巡っては、まだまだ一波乱も二波乱も起きそうである。
そういう意味では、死去が確定した今となっても、やはり彼の死はカギカッコで括って「死」と表記せねばならないのだろう。

評価の難しい人物ではあったが、現代史において、確実に一つの大きな役割を果した人物であったことは間違いない。
どうぞ安らかに。

2004 11 11 02:09 PM [, 経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.10.27

終止符のような

詩人の川崎洋氏が亡くなったとき、「確かこの人の作品に、何かの形で接していたはず・・・」と思ったが、とっさには思い出せなかった。

つい先ほど、毎日新聞夕刊の追悼文を読んでいて、ふと、「やさしい魚」を歌ったことがあるのを思い出した。
新実徳英氏の作品というと、いかにもゲンダイオンガク、というイメージを持っていた私は、合唱作品の中でこんな親しみやすいものがあるというのを初めて知ったのだった。

特に「鳥が」の新鮮で、情感豊か、それでいて流れるようなメロディーラインは、実に魅力的である。
一方で、組曲の終わりを飾る「やさしい魚」の、少しシュールで、透き通った悲しみをたたえた世界は、言葉が音楽を凌駕しているようにも思える。

そんな川崎氏が生涯の最後に見ていた心象風景は、どんなだったのだろう。

ご冥福をお祈りします。

2004 10 27 10:20 PM [Chorus, ] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.10.11

デリダ逝く

すい臓がんで。享年74歳。

訃報記事はこちら

2004 10 11 12:32 PM [] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.10.07

園田高弘さん死去

動脈瘤破裂で亡くなられたそうです。享年76歳。

元記事はこちら

私が小学校から中学に上がるあたりの時期、国際的に成功している数少ない日本人ピアニストの一人が園田さんだったと記憶しています。
その頃、NHKコンサートホールなどの番組で拝見した姿が、長く印象に残っていました。

どうぞ安らかに。でも少し早すぎないですか。

2004 10 07 11:14 PM [, 音楽] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック